またプチ家出。
昨日夕方から睡眠不足の苦しさが極まる。むろやんと喧嘩。とにかく7時か8時、早めに床に就いた。なかなか眠れず。でもさすがに寝入る。
複雑な夢。感動したり、泣いたり重い荷物背負って歩いたり。
現実もこの夢のようなものなのに。重いと思うこと、背負って気持ちを我慢しながら歩いていること、実は夢だというのに。
朝、まだまだ寝ていたいかったるさ。体の力がやっと全部抜けている。このまま寝ていたら回復しそうなんだけど。今日が休みならいいのにな…。
玄米ご飯炊き。台所の段取りうまく噛み合わない。ちぐはぐ。いや、もっとヘン。薬を飲むために早く葛練りを食べたかったのに、葛に熱い甜茶をぶち込んでしまい、作るの失敗。食べ終えたのは9時になった。それからマクロランチ作り。
気持ち安定せず。怒り、悲しみ、悔しさなど。ワンネスの考えに程遠い。ここに詳らかにはできないが…。
今はまだ荒れ狂う海が心の中にある。
実は。
田舎者、嫌い。
貧乏な人、嫌い。
モノの価値が分からない人、嫌い。
ありがたみが分からない人、嫌い。
漫然と生きている人、嫌い。
etc.………
苦しむ。自家中毒になりそう。
私が接していないから知らないだけで、おそらく大多数の人がそうなのかもしれない。
でも、例えばフランスの田舎の人でマナー知らない人でも、モノのココロは基本にあるから、そうヘンなことにはならない気がする。
日本人が、近年になって欠落させてしまったところのものじゃないだろうか。
…いや、どこの国にもあるだろう。中国にもベトナムにも、アメリカにも。私の想像以上のことをやってくれる。
品性がない、ということか。無蒙、無知の輩ということか。
このような感情…どう扱ったらいいものか。たまにやり過ごせる時もあるのだが。
マナーや感性も夢、とは分かっているんだけど。
今回の震災でムダに買い溜めする人。スピリチュアルな講演聞いた後、ビュッフェに突進して食べまくったりタッパーに詰めたりするおばちゃん。そういうのを目にした時の感情に近い。
私の心が狭いのか。お互い様、と鷹揚に笑っていられない。
「いろんな段階の人がいて、楽しい」と余裕もって笑えている人がすごい。
嫌悪感持つ私。まだ問題ありありなのかな。
別に優越意識に浸ってる訳でもない。
だけど、「自分も他人もない、みんな同じ末端」と考えるには苦しい状況。
私もかつてあんな風だった。別の面では他の人に不愉快な思いさせている。
そうは思えないか、自分。どんぐりの背比べ。マナーや感性、この広い宇宙ではちっぽけなのに。
お客様が終わって買い出しに行こうとすると、むろやん、植え替えをした実家の「金のなる木」を持って行くという。止めてー!雨に濡れて雫がいっぱいついてるし、土が柔らかいから車の振動で根が傷む。
むろやん強行。
シートを倒さないと。私が体捻って押さえてなくちゃいけない。実家に直行しないといけない。
金のなる木のコンディションよく知ってるのは私だし、もし枯れたら嫁の私がいろいろ言われるんだよ。
走る車の中、2人罵声。私はむろやんの頭を何回も殴りつけ、髪の毛を引きちぎり。
むろやん実家。義姉がありがとう、と出てくる。
置き場所をむろやんに指示し、水のやり方などを義姉に説明。
むろやん、幹に触ろうとする。思わず叱りつけた。「氣」を送るなんて、この期でそんなパフォーマンス要らない。
「駅につけて。私実家に帰る!!」降りようとするのを引っ張られる。
スーパーの駐車場で車停めようとする隙をみてサッと飛び出した。
とりあえず、冷たい風の中、県立近代美術館へ歩く。あそこなら客待ちタクシーもいるかも。富山には流しのタクシーはないのです。
一応見るつもりだった内容。興奮状態だが、とりあえず見て回る。「現代中国の美術」。
私の好きな写実的なものが多い。
でも、今の私には吐き気を催すような作品や、ドキッとして生理的に受け付けないような作品も。
中国の田舎や駅の喧騒。若者の生活崩壊ぶり。今一番嫌な“品性欠落”辺りで引っかかる。
清冽な静かで美しい数点だけが見られる。
館内のカフェへ。ここ、近代美術館は私、自分に戻れる。
置いてある冊子を見ると、瀧口修造、富山出身なんだと知る。さらに立山に住んでいたという外国人の音楽家が分かった。
シモン・ゴールドベルク。最晩年、富山の立山国際ホテルに住んでいた、と。ホテル住まい、で少しがっかり。立山の田舎の中に住んで頑張ってたのかと思ってた。でも国際ホテルでも交通は不便であることは変わらない。
日本人の奥様もパリ、NY、東京に身を置いていた人なのに、富山を選んだ、と。
富山の風土。ここなら内省できる、と。
うーむ…。
閉館時間なので美術館を出た。
風が冷たい。風邪ひけない。
…仕方ない、まだ整理ついていないが、ともかくむろやんに電話するか…。