障害を「隠す」ということ。

昨日、知人がメールでご自分の話をしてくださった。


たまたまだ。まだお会いしたことはなく、先方は私の補聴器を見た訳ではない。


その方は頭に幼い頃にできた大きな傷痕があるそうだ。いじめられたりしたが、傷痕を隠さないで立ち向かってきた。


戦ってきた、と。「俺は俺だ、人は姿、形でない」と自分に言い聞かせて。


大人になっても傷痕をそのまま隠さないで働いていた。


すると職場の上司がそっと傷痕の事を尋ねてきて、こう言ってくださったのだと。


「気持ちはよく解る。けどね、見る方も辛いから、かつらをつけたらいいよ」


さらに続けて


「君は君、というのは君と会えば誰しも解る事。

傷痕はこれからの君にとってはもう要らないものだから、あえて人に見せなくてもいいよ。
隠せるものなら隠したらよいと思う。
傷痕から得るものは得たはずだから。」


一番こだわっていたのは自分だ、と気が付いた、と。


…すばらしい言葉だ。


そして、これもまたシンクロだった。


というのはその前日、私は「隠す」「隠さない」で引っかかっていたところだったので。

実はその日家に来てくださった耳の聞こえない女性が、両耳にしている補聴器を「隠す」方だったのだ。


私は先程の知人と同じく自分の障害を隠さないでむしろ見せて闘ってきた。


補聴器は耳に障害がある、と気づいてもらうため、隠したりはしない。障害を積極的に楽しむべし、と最近きれいなスケルトンのパープルカラーの補聴器を選んだぐらいだ。


私には隠す彼女の心情が理解できなかった。

彼女のことが気持ちの中で引っかかっていて、まだ持ち越していた。


そこにこの話だ。


目で見えない、分かりづらい中途失聴という障害は、目に見える傷痕とは話が違うかもしれない。


地方では、傷痕や障害はドキッとさせるから隠すべきもの、という考えもあるのだろうかもしれない。


でも、他人に不要な気遣いはさせない、という柔らかな、慎ましくも優れた日本人の考え方を思い出させてくれた。


何よりそれが一番、私を本道に引き寄せてくれた気がしてならない。


今日は立ち寄った本屋さんで、こんな一文が目に入ってきた。



機嫌がよいこと、
丁寧なこと
親切なこと、
寛大なこと、等々、
幸福はつねに外に現はれる。
…鳥の歌ふが如く、
おのづから外に現はれて、
他の人を幸福にするものが真の幸福である。

    三木清
  (人生論ノート)

自分の見た目は、人を幸福にさせているだろうか。