「ノヴェンバー・ステップス」。濁りと美しさ。
…私は、この自分の体のおもりをしなくてはいけない。
この体に責任をもって。
武満徹「ノヴェンバー・ステップス」。琵琶の音。
ふと。
自分も含めて、大方の人は作られた虚の、まやかしの「美しさ」に踊らされているんだな、と思った。
「美人」、「キレイ」、「美男子」。
内面からにじみ出た美しさを感じ取るのではなく。
その感じ取る力は衰退していて。
本当の美しさではなく、虚像でしかない外見の美しさに惑わされている。
映画やテレビに出ている俳優やタレントも。タイなどで売られる子も。そして、それを買う側も。権力者から、私たち一般市民まで。
女性であった天才琵琶師、鶴田錦史も。
自分の「醜さ」に自分で足を取られて。
美しい女性にしか目がいかなくて。
女を捨てて。
行かなくてもいいのに、わざわざ険しい道を行った。
でも。
そうでなければ得られなかった、この音…!
表面的な美にとらわれて苦しんだ人間だからこそ、生まれたこの音。
「ノヴェンバー・ステップス」を聴く。
濁りの人生の中から生まれた清の音。
そういえば、武満徹も独特の風貌です。
この曲を初演したNYフィルにしても、初めの練習段階では異質な濁りとして琵琶の音を嘲っていたらしい。
濁りを美とする心。
「清濁併せてのまないと大成しないよ」と言った虚子に、
「濁をのむなら大をなさなくてよい」と答えた水原秋櫻子の言葉を思う。
冬菊のまとふはおのがひかりのみ
秋櫻子
濁をのんだなら、またいかばかり深い句ができたのだろうか。
必要としない人間もいて。