悲しみは私の中で喜びに変える。

昨日、大阪の知り合いが日曜日に亡くなったことを
母から教えてもらいました。

そんなに親しくはないけれど、
お世話になった方です。
一緒の舞台に立ったし、
板挟みになった複雑な私の立場を
唯一理解してくださった方でした。

74歳。肺癌。肢体不自由、聴覚にも障害があって、
でもパフォーマンス活動を旺盛にされた。
優しくてできた方でした。
明るくてひょうきんな方でした。

マイミクさんでもあったので、
mixiのその方のページを開いてみる。
本人は亡くなっているのにページがまだある不思議。

聞いた当初はそんなにショックはなかったのに、
夕食を頂いている時に突然、
じわじわっと。
パニックっぽい感じできました。
ナーバスになっているからか。
高ぶった感情がいきなり入って来る。

その人はもうこの世にいない。
あれが今生の別れだった。
最後に私に会いたいと思われたかは分からないが、
私のことが意識にのぼった瞬間があったかは分からないが、
苦しみのさなか、
もう私に会いたくても
それを伝える術がなかった。

 (ドキドキドキ・・)
会いたくても、もう会えないんだ、という事実。
もう二度とその人に会えないんだ、という事実。

震災で一度に身内を大勢亡くした方々の気持ちを今更ながら思う。

待てよ。

この悲しい感情、
ただ誰かの悲しみの「波動」が私の肉体に伝播しただけ。
流れてきただけ。
私の中に来たこの感情を淡々と観察しよう。
「ああ、誰かのそういう悲しみ、やりきれない感情が
 自分の中に流れているんだな」と。

この「悲しい、ドキドキ、怖い、恐怖」は
私の本体ではない。
私はこの感情を味わいに来ている。
私がこの感情を味わうために
この出来事は起こってくれた。

「もう二度と会えない」、
→それが真っ赤なウソだったら?
 もう一つの世界では、
 まだ彼は肉体を持って生きているかもしれない。

「苦しんで死んだに違いない」
→全くそうでなかったとしたら?
 できた方なので、友人にも恵まれた方なので、
 後に遺さず、周りに散らさず。
 後に何も遺さずにのぼられたかもしれない。

知りようがないことはよき方向に。
苦しまずに、満足して亡くなられたのだと。

彼の肉体に執着しない。
彼の肉体だけを狭く見ない。
彼はもっとフリー。

不安なのは、苦しむのは、
悲しく辛いのは、
「私の考えによって」。

自分の中に来た「悲しい」という感情を
確かに受け入れて認めてあげる。
すると消える・・はず。

彼の死、病の苦しみの無念の想いが
流れてきたのかもしれない。
ならばそれを私の所で浄化してあげよう。
喜びに変えて差し上げよう。

私がワクワク楽しむこともその人の供養になる。

あのお年だから、会いたかった人に
今大勢会えているかもしれない。

体に障害のある方だったから、今は
肉体を離れたフリーさを満喫しておられるかもしれない。

「大丈夫だよ」、あの笑顔で私にそう言ってくださっている気がする。

「もったいない。
 一瞬一秒、精一杯楽しんで生きること」。


   なんで苦しい病気があるんだろう。

今日はその方のお葬式。

遠くに嫁ぐということは、
とりもなおさず
死に目に会えず、
お葬式にも行けず、
法事にも行けないということだと改めて思い知る。

後で知らされたりだとか。
こうして何人の親戚や身内の死を送っただろう。

遠い空で思う。
今はかえって近くにいらっしゃるんだろう。

今まで何人かいたし、
これからもこういうことがあるでしょう。

ちょうど3.11という日に亡くなられたあなた。
私に病を告げないで逝かれたあなた。
やはり、最後まで優しい方だったのだと思う。

ありがとうございました。

これが、私のあなたへの弔辞です。